バングラデシュの国旗とは?日本国旗に似ている理由や色の意味を解説
南アジアのイスラム国家バングラデシュの国旗は緑の生地の中央からやや左側寄りに赤い円を描いたもので、旗は縦と横の辺の長さは5:3の比率で、円の半径は旗の横の長さの1/5と規定されています。それはまるで色違いの日本国旗のようなデザインになっています。なぜこの旗のデザインになったのか、歴史と意味を本記事で解説します。
バングラデシュの国旗ができた時代背景
バングラデシュの国旗の成り立ちを知るにはまず国旗ができた時代背景を知る必要があります。
1947年8月15日インドを支配したイギリス領インド帝国の終焉と同時に・パキスタン分離独立が起こり、イスラムが多数派を占めるバングラデシュとパキスタンはヒンドゥーが多数派を占めるインドから分離しました。この時、バングラデシュとパキスタンは一つの国になりました。しかし、両地域は地理的にも文化的にも、言語的にも、人種的にもあまりに離れていてうまく調和できませんでした。それに現パイスタン側が支配的な位置にありました。結局バングラデシュはこれに反発しパキスタンと分離する機運が高まっていきました。
しかしバングラデシュ内にはビハール州を出身とする非ベンガル系の人々が大量にいて、この人々はバングラデシュ人の民族自決という概念に非協力的でした。このためバングラデシュではビハール人への暴力が起きてしまいます。1970年3月25日そういったベンガル人の自決運動・反パキスタンの動きを抑えようとするパキスタンはついに武力に訴えました。バングラデシュの主要都市を武力で鎮圧し、ベンガル人を都市から追い出すという作戦であり、作戦名はサーチライト作戦といいました。鎮圧の過程で多くのバングラデシュ人が命を落とし、5月までにパキスタンはバングラデシュの主要都市の掌握を完了しました。
しかしこれによってバングラデシュ人の反発心はいよいよMAXになってしまい内戦状態になってしまいます。それにともない戦災から逃れインドに来るバングラデシュ人難民が増加したことでついてインドが介入し、バングラデシュにいたパキスタン軍は降伏しました。しかしパキスタン本国はバングラデシュ支配の継続を求め、長期戦も覚悟してまずはバングラデシュを攻めるために制空権を取る必要があると判断、なんと1971年12月3日にジンギスカン作戦といってインドの空軍基地を砲撃するという暴挙に出ます。これにより第3次印パ戦争が勃発しますがパキスタンの攻撃はあまり効果がなかったため、インドはバングラデシュ支援を継続して1971年12月16日バングラデシュ独立をパキスタンに認めさせる形で終結しました。
バングラデシュ国旗はいつできたのか?
現在のバングラデシュ国旗の原型は1970年6月6日にダッカ大学のイクバルホールにてカムルル・ハサンとベンガル人が自主性を持つことを訴え続けたSwadhin Bangla Betar Kendraラジオ放送局に鼓舞された学生たちによって作成されました。この時のものは緑字に赤い円が描かれさらに円の中にバングラデシュの国土が黄色で描かれていました。この旗は1971年3月2日独立機運が高まる中でダッカ大学で初めて掲げられました。その後、1972年1月13日、国旗に描かれていたバングラデシュの地形が複雑であったため当時は正確に印刷して配布することが困難であったことと、シンプル化する肯定で黄色の国土の図は取り除かれ今のデザインになりました。それから1972年1月17日に国旗として正式に承認されました。
バングラデシュ国旗が意味することとは?
バングラデシュ国旗のデザインには
- バングラデシュの国旗はパキスタンからの独立が悲願であったため、三日月マークのパキスタンと異なる満ちた円形にした
- 緑はイスラム系の国々の象徴的な色である
- 緑色は木々が生い茂る緑豊かなバングラデシュの風景そのものである
- 赤い円はこれから上りゆく太陽のような国を示唆
- 赤い円は解放戦争で流されたベンガル人の血を意味する
などの意味がこめられているそうです。
バングラデシュでは国が定めた記念日に国旗を掲揚するようになっています。
- 2月21日 - ベンガル語国語化運動記念日
- 3月26日 - 独立記念日
- イスラム教第3月中旬 - 預言者生誕祭
- 8月15日 - ナショナル・モーニングデー
- 12月16日 - 戦勝記念日
など。