中印国境紛争から現在までインドと中国の国境問題の経緯を解説
中国とインドは国境問題をめぐって衝突し対立してきました。一つは上地図の①の位置マクマホン線と呼ばれるインド東部のチベットとアルナーチャル・プラデーシュ州の境、もう一つは上地図の②の位置アクサイチンと呼ばれるインド北西部カシミール地方の境です。本記事は両国にこれら2つの紛争地帯ができたその経緯をイギリス領インド帝国時代まで遡り、歴史的なできごとや国境地図を交えながら時系列で解説します。
目次
①マクマホン線
インド東部アルナーチャル・プラデーシュ州とチベットの境界にマクマホン線はあります。この地域で現在2か国が領有権を主張している地域は元来チベットの領土ですが、チベットは清の保護国であったり、イギリスと独自に条約を結んでいたことがあったりしたため複雑化しています。
中国の主張(マクマホン線)
1727年 | チベット内乱で清の助けを求めた時以来チベットは清の保護国になっていました。 |
1855年 | ネパール・チベット戦争の時もチベットを保護したのは大清帝国から派遣された軍です。 |
1903年 | イギリスがチベット遠征をはじめチベットは抗戦しましたが1904年首都ラサまで攻略されてしまい、チベット最高指導者のダライラマはモンゴルに亡命、その間にイギリスは中国の同意無しにチベットと独自の条約を結んでしまいました。その条約の主な内容は以下のようなものです。
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1906年 | 今度はイギリスは中国と『チベットを尊重する英中条約』を締結します。その条約の内容は以下のようなものです。
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以上をもって中国はイギリスは中国のチベット領有を認めた点と、イギリスがチベットに定めたマクマホンラインについて中国は同意していない点を根拠として、イギリスがマクマホンラインを策定する以前の、現アッサム州にとどくまでがチベット元来の伝統的な国境線であり正当なものと考えています。
インドの主張(マクマホン線)
1911年辛亥革命が起こって清の時代が幕を閉じ中華民国に生まれ変わりましたが、イギリスはその混乱期に乗じて再びチベットに侵攻。そして中国とチベットの代表をインドのシムラに招いて領土について交渉を始めました。当時イギリスの全権代表だったヘンリー・マクマホン卿が示した提案は、インドとチベットの国境線を北上させて南側はイギリス領インド帝国に合併、残ったチベット領は内チベット(中国管理)と外チベット(チベット自治)の2つの地区に分けるということでした。この時にマクマホン卿が示したインドとチベットの国境線がマクマホン線と呼ばれます。当然中国は同意しませんでしたが、なんとチベットはイギリスと条約を締結しました。(この時、中国は動乱期に入り、この辺境とも言える国境線の問題に対処しきれず、再び本腰を入れて向き合うのは第2次世界大戦後になります。)/
しかしインドはこれをもってマクマホン線はチベットが認めたものであり、インドはイギリスのインド領を引き継いだものであって、国境線も当然マクマホンラインを引き継ぐと主張しています。
②アクサイチン
インド北西部カシミール地方とチベットとウイグルの境界線にありますアクサイチンは標高5000mの無人の荒地でもともとウイグル族やキルギス民族のメッカ巡礼路になっていました。しかしそもそも人が住める場所なかったため、イギリスがそこへ来て勝手に境界線を定めるまでは明確な国境がなかったそうです。1865年 | イギリスは明確な国境を求めこの荒地にも測量士を派遣し、アクサイチンをインド側に含むジョンソンラインを策定(ただし中国との同意無し。) |
1899年 | イギリスは国境を南下させアクサイチンを中国側に含めたマカトニー・マクドナルドラインを中国に提示 |
1911年 | 清崩壊するやイギリスは再びジョンソンラインを基準にする |
1947年 | インド独立とパキスタン・バングラデシュの分裂 |
1949年 | 国共内戦に勝利した毛沢東が中華人民共和国を宣言。インドは当初、古代からの中国との繋がりなども考え友好関係を構築する意思があったため中華人民共和国を承認した最初の国の一つになりました。 |
1950年 | 中国のチベット侵攻 |
1951年 | 中国がチベットを併合 |
1953年 | 12月周恩来はインドにチベットとインドの関係について領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存の5原則を提唱。 |
1954年 | 6月平和五原則として上記に合意し宣言されました。中印は兄弟という目標が掲げられていました。 |
1954年 | 7月インドのネルー首相が国境明確化を指示。アクサイチンについてネルー首相は、「アクサイチンは何世紀にもわたってインドのラダック地方の一部」であり、国境は議論する余地がないほど強固で確定的なものと述べてた。 これに対し周恩来首相は国境が明確に決まったことは一度もなく、イギリスが提案したのはアクサイチンを含めたマカトニー・マクドナルドラインの一度だけだ。現に今も中国の管轄下にあることを考えるべきだと述べている。 |
1956年 | 57年まで中国はアクサイチン経由で新疆とチベットを結ぶ道路を建設 |
1959年 | 4月ダライラマインドに亡命。両国の関係悪化が顕著になっていきました。 |
中国の主張(アクサイチン)
1759年にはウイグル全域が清朝によって平定されました。19世紀に入ると内乱が相次いぎましたがしかしそれでも1884年(清朝では光緒10年)に新疆省が正式に設立されています。アクサイチンはウイグル領に含まれていたもので、清がそのウイグルを併合したのだから、国境線はウイグルまで含んだ清朝領域で、当時設置された境界標識に基づくもので、なおかつイギリスもそれを提案したことだと主張。
インドの主張(アクサイチン)
アクサイチンはラダックに属し、ラダックはシーク帝国に属していたが、イギリスがシーク帝国を破ってイギリス領に併合したのだから、最終的にイギリス領インド帝国の継承者である現インドに所属するものと主張しています。
中印国境紛争勃発(1962年10月-11月)
1959年 | 10月カシミールで中印の銃撃戦発生(コンカ・ラ事件) |
1959年 | 11月中国の周恩来首相はインドのネルー首相に、東部においてはマクマホン線から双方が20km後退すること、西部においては現在実際に実効支配している地域まで双方が撤退することを提案しましたがネルー首相は拒否。 |
1960年 | ネルーが前進政策を開始し、マクマホン線に沿って前哨基地を幾つも設置していくなかでマクマホン線を越えていた基地もあり、これに対し中国は外交で決着をつけようとしましたがインドは全て拒否。 |
1962年 | 遂に中国は平和的交渉を放棄し、国境線主張で揉めてきた東部と西部に同時に攻め込みました。そしてインド軍をあっという間に押し返した中国軍ですが突然全軍に攻撃ストップを命令。再びネルーに交渉を持ち掛けます。内容はまたしても、双方が"現在"の実効支配線(マクマホン線をすでに超えている地点)から20キロ後退すること、アクサイチンの現在の支配線を越えないことでした。マクマホン線を絶対視するネルーはマクマホン線を2歩超えて進んできて1歩下がるような中国のこの交渉を断固拒否。 |
一方中国はアクサイチンの実効支配を確保したことで停戦宣言、中国はチベット本来の伝統的な国境線が正当であるとする考えを変えず、マクマホン線を国境とすることは認めないものの捕虜にしたインド軍を解放し、紛争勃発以前の位置まで後退していきました。以後、今日にいたるまで両国間には領有権の問題があります。それでもインドはアッサム州の北部を政府管轄地として分離させ、さらに1987年にはそこに新たにアルナーチャルプラデス州を設置しました。
近年の動向
2003年 | インドのアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相が訪中し、中国はシッキムをインドの領土と承認する代わりに、インドはチベットを中国領と承認することで、江沢民元中国共産党総書記と合意。 |
2005年 | 中印は「両国が領有を主張する範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外」とすることで合意 |
2013年 | 中国軍が実効支配線中国側に野営地を設営したためインド軍は中国軍の野営地近くに部隊を派遣して対峙。約1か月後、両国は部隊を撤収させることで合意し両軍撤収。 |
2017年 | 中国軍がチベット西部のドグラム高原道路建設を始め、インド軍はパンゴン・ツォ付近で阻止しようとしてもみ合いになる事件が発生。工事は停止され二か月にらみ合いが続く中、カシミール地方パンゴン湖の国境では中国軍とインド軍が投石合戦する事件が発生。中印は部隊の撤退で合意したが、中国は警備は続行すると発表。 |
2020年 | シッキム州の国境で中印両軍総勢150名が殴り合いを起こす事件が発生しました。 |
以上が中印国境紛争の経緯です。