アショーカ王と石柱碑文【インドで最初に巨大帝国を築いた仏教王】
今から約2300年前、紀元前300年ごろインドにはいくつもの国が存在していました。ガンジス川流域にはマウリヤ朝という国があり、そこでアショーカは王子として生まれました。この王朝はアショーカ王子のお爺さんが興した国でした。お父さんの代にはインド西部まで治めるようになり、やがてアショーカ王子が大人になり3代目の王になると、彼はマウリヤ朝の領土拡張を南に進め、インド半島南端を除くほぼ全域を支配する帝国を打ち立てました。その後アショーカ王は仏教を強く信仰するようになり支配した地域全土に釈迦の教えを土台にした社会秩序の形成に尽力しました。この記事ではアショーカ王の経歴をご紹介します。
目次
アショーカ王の時代の年表
紀元前500年ごろ:釈迦が生きた時代
紀元前327年ごろ:アレキサンダー大王のインダス川流域侵攻
紀元前317年ごろ:マウリヤ朝建国
紀元前304年ごろ:アショーカ誕生
紀元前268年ごろ:アショーカ王即位
紀元前260年ごろ:カリンガ国征服
紀元前258年ごろ:仏法による統治を宣言
紀元前232年ごろ:アショーカ死去
アショーカ王のマウリヤ朝とは
マウリヤ朝ができたのは紀元前317年ごろと言われ、アショーカ王のお爺さんがガンジス川流域(現バングラデシュ寄りの辺り)に興した王朝です。お爺さんの代からアショーカのお父さんの代になると、インダス川流域(インド西部)にいたアレクサンダー軍の残存勢力から土地を奪い取ったことで、ガンジス川からインダス川まで(現バングラデシュあたりからインド西部まで)の広大な領域を治めました。そしてアショーカのお父さんの代からアショーカ王の代になるとインド中部への支配に乗り出し、アショーカ王は即位後8年目にしてインド中部デカン高原の大国カリンガ国の制圧を成し遂げ、ほぼインド大陸全域(現パキスタン、アフガニスタン一部含む)を支配する王朝になりました。これによりマウリヤ朝はインド史上最初の巨大帝国と言われています。
アショーカ王とカリンガ国の戦争
アショーカ王が挑んだデカン高原のカリンガ国の制圧はアショーカ王のお爺さんも制圧しようとしましたが撃退された過去があります。それでもマウリヤ朝のためにはいずれ排除したい存在でした。そしてアショーカ王の時も激しい抵抗に合い苦戦します。マウリヤ朝を盤石にしたいアショーカ王と、地元を絶対死守するカリンガ国は双方一歩も引かず泥沼の絶滅戦になり、あらゆる破壊と殺戮が何日も続いたと言われます。この戦争により一般大衆やそれまで人々の尊敬を集めていた各宗教の高僧や知識人なども戦災に巻き込まれまさに死屍累々地獄の様相でした。両軍おびただしい死者を出しながら、アショーカ王は最終的に戦いに勝ちましたが、大破壊をもたらし数えきれない死者を出したことを後悔し、人が変わったようになってしまいました。
アショーカ王とダルマ(法)
ダルマは法を意味します。仏教のみに限定しませんがアショーカ王の信仰したダルマは仏教でした。カリンガ国との凄惨な戦いの前からすでに仏教徒であったとの説もありますが、カリンガ王国との戦争で多くの人々が犠牲になったことを悔いたアショーカ王は、この戦いの後からは本格的に仏教信仰を強めていきました。そして大破壊をもたらしてしまったことを悔い、今度は平和な社会秩序を定着させることに尽力します。暴君として恐れられたアショーカ王は仏教に没入し仏教を通じた平和な社会の実現に腐心するようになりました。そしてアショーカ王碑文と呼ばれる、釈迦の教えが書かれた石柱や石碑を全土に配置し、それを人々が持つべき理念としました。
アショーカ王碑文
アショーカ王の柱には下記のような碑文が記されました。- 生き物を大切にし無駄に殺さないこと
- 宗教対立しないこと
- 親の言うことを良く聞くこと
- 年上は敬うこと
- 礼儀正しくすること
- 嘘をつかないこと
- 僧侶や精神的探求者に敬意を払うこと
- 弱い者イジメしないこと
アショーカ王の石柱は釈迦の実在を裏付けた
平和な世界の実現のため、仏法を書いたアショーカ王の石柱はインド各所に配置されましたが、その中で現ネパールのルンビニで発見された石柱には彼が崇拝した釈迦の生誕の地と刻まれていました。釈迦が生きた時代はあまりにも昔のため、実在したか宗教で作られた人物なのか定かでありませんでしたが、発見以来実在説が一般的になりました。
アショーカ王 仏教保護した慈悲の大王として記憶される
暴君は世界史に数限りなくいますが、改心して弱者救済に尽力した統治者はそうそういないのではないでしょうか。しかもアショーカ王はインドに興った空前絶後の大帝国の大王だったのにです。
アショーカ王の石柱に刻まれた法は古来から人間の道義は不変であることを今に伝えていますね。2000年以上が経った今もアショーカ王の名は偉大なる慈悲の王として記憶され続けています。